あなたのために/辰巳芳子

あなたのために―いのちを支えるスープ

あなたのために―いのちを支えるスープ

仕事が忙しいと、ついつい食べる事を適当にすませてしまいがちです。この本は料理本ですが、そんな時に読むと食べる事を通じて、豊かに生きる事を教えてくれます。


■生きることは食べることであり食べることは生きることである。
とても当たり前のことなんですが、人は食べる事で日々の命をつないでいます。その意味で、食事とは命をつなぐ大切な行為です。では、食事とは命をつなぐ為だけのものなのでしょうか?

僕は数年前から友人をよく家に招待していて、食事をしながら色んな話をします。映画の話、音楽の話、本の話、仕事の話、昔の話、将来の話、その日の集まったメンバーや料理、アルコールの入り具合で、話の方向性はどこへでもどこまでも向かいます。
最近読んだリンダ・グラットンのワークシフトの中で古代ローマの哲学者・政治家であったキケロの言葉の引用にこんなくだりがありました。

キケロはこう述べている。「世界で最も強い満足感をもたらす経験とは、地球上のあらゆる題材について、自分自身に向かって語るのと同じくらい自由に話せる相手をもつことである」。

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>


僕は仲間を招待して家で食事する事を通じて、旨い飯と仲間たちが揃うと人生がこんなにも豊かになるのかと、心の底から驚きました。生きるためには食べていかなくてはなりませんが、食べること自体も生きることへの強いモチベーションになるのです。そんな生活を日々送ってきて、ようやく辰巳芳子さんがこの本でおっしゃっている事が少し理解できたような気がします。

 人の生命のゆきつくところは
 愛し愛され、一つになることを願い
 それをあらわさずにはおれぬ仕組みを
 生きるところにあると思います

 人間の尊厳も自由も
 互いに愛惜せねばならぬ根源も
 ここに見いだされてなりません


食事を通じて、生きる事の根本原理を追求した哲学的料理本です。書いてある事も料理も難しいですが、僕の人生を豊かにしてくれる一冊です。

走ることについて語るときに僕の語る事/村上春樹

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

■規律がもたらす日常からの飛躍について
大学時代の恩師がおっしゃっていた事なんですが、人間はあまりに自由な環境下で生きていると苦しくなってしまうそうです。「自由」という言葉には開放感が溢れていますが、その反面、何をしていいのかわからなくなり、途方に暮れてしまいます。だから、人は豊かな人生を送る為には規律が必要なのです。

この本を通じて、村上さんが最も伝えたかったのは「規律」に関係する事なんじゃないかな、と僕は思っています。

走るペースを掴む事は小説を書くペースを掴む事と同じ事だ。

村上さんはこの本の中で書いています。ジョギングを習慣としている人なら分かると思うのですが、長距離を走れるようになる為には規律を作り、それを守る事が非常に重要です。一定の頻度、一定のペースで走り続ける事で初めて長距離を走れるだけの体力を獲得できます。村上さんは、ジョギングを通じて獲得した規律を作り、規律を守り、目標を達成するプロセスを小説づくりに応用しているんだと思います。


日常において規律を守り続ける事が、日常を飛躍して偉業を成し遂げる事につながるのでしょうか。


そういえば、サッカー元日本代表監督のイビチャ・オシムさんも「規律=ディシプリン」の重要性を説いています。

Before Sunset/リチャード・リンクレイター

ビフォア・サンセット [DVD]

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人間、三十歳あたりになってくると、「あの時こうしていたら・・・、」とか「もっとこうしていれば・・・」という所謂、タラレバの思い出が一つや二つくらいあるんじゃないかと思います。そして、往々にしてタラレバは恋愛絡みの話に多い。


■大人の映画と評される所以
本作は、前作Before Sunsetから9年後のパリが舞台となっています。30代前半になったジェシーイーサン・ホーク)とセリーヌジュリー・デルピー)が偶然再会する所から物語は始まります。作品は前作と同様、ほぼ二人だけの会話で成り立っているのですが、二人が紡ぎだす会話は、抽象的・哲学的な会話で恋が始まる瞬間の煌きを捉えた前作とは異なり、殆どお互いの現在の生活に対する不満を話しているだけです。


本作の重要なポイントは、全ての会話は9年前の素敵な出来事を踏まえた上でのお話だという事です。つまり、お互いの現在の生活に対する不満を話す事で、9年前ああしていれば、今こんな事にはならなかったのに・・・、という盛大なタラレバ大会を繰り広げているのです。二人は再会できたんだし、止まってしまった二人の時間をさっさと推し進める事だってできたと思います。でもそんな野暮な事はしません。本作がamazonのレビュー等で大人の映画、と評される事は多いですが、その所以はこの点にあります。


つまり、大人の映画とは結論では無く、過程を楽しむ余裕を描いた作品だと僕は思います。大人にはタラレバを楽しめる余裕があるのです。


「過程を楽しむ余裕」という視点で観ると、本作のラストシーンにも納得できるんじゃないかと思います。最後の最後までタラレバで引っ張る、まさしく大人の映画です。

リトル・ピープルの時代/宇野常寛

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代


僕は広告会社で働いているのですが、2年くらい前からAR(Augment Reality=拡張現実)という技術が少しずつ注目を集めています。例えば、特殊なコードが印刷された紙を腕に貼って、webカメラで腕を映すと腕時計をしているように見える技術があります。
どうやら時代はVR(Virtual Reality=仮想現実)からARの方向へとシフトしているようです。


本書では、村上春樹ウルトラマン仮面ライダーバットマン、AKB48の分析を通じて、世の中で起こっている事を見つめます。ちょっと突飛な感じがしますが、著者宇野常寛さんの「点と点を線で結ぶ力」はスゴイと思います。


■外部を失った世界について:ビッグブラザーとリトルピープル
僕たちは家族の一員であり、所属している会社の一員でもありますが、所属の一番大きな枠組みは国家だと思います。国家は僕たちを守ってくれる存在でも有り、束縛する存在でも有ります。ビッグブラザーとは国家に代表される、大きな体制の象徴です。ビッグブラザーは、私たちの支配する者であり、守ってくれる者でもありました。

やがて大きな体制は意味を持たなくなります。現在世の中を動かしているのはグローバル資本主義経済の枠組みです。国家でさえも、この枠組みの中に収まってしまいます。グローバル資本主義経済は意思や思想を持った者ではなくシステムです。ビッグブラザーの時代は終わり終わってしまったのです。

ここからが本書の本題、リトルピープルのお話です。
ビッグブラザーのいない世界、つまり自分を支配したり、守ってくれる体制の無い世界では、僕たちはそれぞれが自己目的によって行動します。この自己目的の事をビッグブラザーと対比してリトルピープルと表現しているのだと思います。

リトルピープルとは江藤淳さんの「成熟と喪失」で僕が感想に書いた“母”の崩壊に対する一つの答えを出しています。

「成熟と喪失”母”の崩壊/江藤淳」の感想
 「母的なつながり」の中で発展して来た日本ですが、1990年代以降本格的にグローバリゼーションと対峙する中で、終身雇用は崩壊しつつあります。日本に漂う閉塞感の正体とは、終身雇用という母を失った事、そして新しい「母的なつながり」の不在なのではないかと僕は思うのです。
成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

江藤淳さんが言うところの母=共同体、ジョージ・オーウェルが言う所のビッグブラザーがいなくなってしまった今、僕たちは自分達がそれぞれに抱えるリトルピープルと共に生きていくのです。


VRからARへ
ビッグブラザーの崩壊以降、インターネットの世界にも変化が訪れます。
90年代〜00年代前半にかけて、仮想現実であったインターネットの世界は、拡張現実へと変化を遂げつつあります。匿名だったmixiに代わって実名のfacebookが台頭し、実際に行った場所をfoursquareでチェックインする時代です。インターネットの世界は仮想現実ではなく現実の延長線上にあります。


ビッグブラザーからリトルピープルへ、VRからARへ変化する事で、とても重要な事が分かってきます。目の前で起こっている事が全てじゃなくて、大切なのは目の前で起こっている事をどうとらえるかです。例えるなら、史跡の観光に似ています。事前に勉強するとしないのでは、同じ場所へ行っても印象が全くちがってきます。


最後に、本書で宇野常寛さんが一番言いたかったと思う箇所を引用します。

リトル・ピープルの時代−それは、革命ではなくハッキングする事で世界を変化させていく〈拡張現実の時代〉だ。

ブラック・スワン/ダーレンアロノフスキー

ダーレンアロノフスキ−の最高傑作!


「π」で世界的に有名になったダーレンアロノフスキ−監督ですが、「π」が好きかどうかと聞かれると、個人的にはあまり好みではないです。円周率の秘密にたどり着くという設定はとても面白いですが、なんというか作品の世界に入り込めない、共感するのが難しい。


でもこの人が本質的にやりたい事は「π」で描かれていたのような、人間の不安や、精神の歪みを描きたいんだと思います。その証拠に、ダーレンアロノフスキ−監督は同じようなテーマで何本か映画を撮っています。僕の中では彼の位置づけは、やりたい事はわかるんだけどちょっと肌に合わない映画監督でした、「レスラー」を観るまでは。


おそらく、彼の中でキャリアの分岐点となったであろう作品「レスラー」。
キャリア晩年のレスラーが自分の居場所を求めて、リングの上で危険な試合を繰り返す話で、これもまた、心の不安をテーマにしています。ただし、これまでの作品とは決定的に違うのは、不安が客観的に描かれている点にあります。一人の中年男性が不器用に生きている様子がリアルに描かれ、その世知辛さは共感を禁じ得ません。
「レスラー」はタフな毎日を何とか生きているオレたちの映画!こちらもおすすめです。

レスラー スペシャル・エディション [DVD]

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ブラックスワン」のストーリーを一言で紹介すると、バレエ「白鳥の湖」の主役に抜擢されたバレリーナがプレッシャーにより精神を壊していく話です。ダーレンアロノフスキー本来のテーマに近い作品ですが、彼の他の作品と違うのは、「レスラー」で培った鑑賞者を共感させる人物描写を取り入れている点にあります。
白鳥の湖」を主演する事になったニナ(ナタリー・ポートマン)は清楚な表現と官能的な表現を演じ分ける事を舞台監督から求められ、苦悩します。彼女には「官能的」とはどういう事か分からなかったからです。なぜ彼女には分からないか、彼女の周囲の環境を客観的に描く事で、彼女の悩み、そして思い詰めていく過程に迫ります。


芸術とは虚実皮膜である事を捉えた傑作。お芝居はあくまで虚構のものだけど、それを演じているのは血が通っている現実の身体なのです。

Before Sunrise/リチャード・リンクレイター

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 [DVD]

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2010年1月17日、阪神・淡路大震災から15年の特集として、NHKは森山未來サトエリ主演で「その街の子ども」というドラマを放送しました。ドラマは好評で、翌年には再編集したものが映画化されました。

ストーリーを簡単に紹介すると、阪神・淡路大震災を経験し、神戸を離れた全く他人の二人が、震災15年の前日に偶然神戸で出会い、二人は追悼の集いに夜通し歩いて向かいます。作品は殆ど全編通じて森山君とサトエリの会話で構成されていて、少しずつ二人が心の傷を共有して、それでも前を向いて生きて行こうする様子を描いた作品です。こちらもとても良い映画です。
その街のこども 劇場版 [DVD]その街のこども 劇場版 [DVD]


さて、前置きが長くなってしまいましたが、「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」で「その街の子ども」が評論された時、宇多丸さんが引き合いに出していたのが今回の「Before Sunrise」です。確かに、偶然出会った男女が夜通し街を歩くという「その街の子ども」のプロットはこちらから着想したんだと思います。1995年日本公開の少し古い映画ですが、傑作中の傑作です。


■恋愛の本質と「お洒落で洗練された体験」について
僕は昔(僕に限らず若い男性全般的にそうだと思いますが)、デートが決まると、彼女をどこへ連れて行って、何をすべきか、いつも悩んでいました。まぁ、多分彼女もそれを期待していたんだとは思います。フジの月9を観て育った世代としては、恋愛とはお洒落で洗練された体験である必要があった訳です。


では、恋愛の本質とは「お洒落で洗練された体験」なのでしょうか?


フロムは愛の本質を与える事とし、こんな事を書いています。(エーリッヒ・フロム 愛するということ 新訳版

しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。(中略)
自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているあらゆる表現を与えるのだ。


劇中で、偶然出会ったジェシーイーサン・ホーク)とセリーヌジュリー・デルピー)は夜通し歩く過程で色んな話をします。男と女、生と死、神の存在と宗教。最初は地味に見えたセリーヌが終盤になってくると、可愛いと思ってしまうのは、この作品が恋愛の本質を切り取っているからだと思います。傑作です!!

成熟と喪失 “母”の崩壊/江藤 淳

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

■日本に漂う閉塞感の正体に関する考察
 僕はバブルを知らずに育った世代なので、かつて日本がイケイケだった時代の事は知識でしか知りません。僕が社会の出来事を知覚し始めたのは1995年くらいからなのですが、その頃には既に何とも言えない閉塞感のようなものが日本を覆っていました。

 本書の中で江藤さんは日米間における親子間の関係の違いについて、興味深い指摘をしています。
アメリカ(エリック・エリクソン『幼年期と社会』より)

 エリクソンは米国の青年の大部分が母親に拒否されたという心の傷を負っているという。(中略)エリクソンによれば、米国の母親が息子を拒むのは、やがて息子が遠いフロンティアで誰にも頼れない生活を送らなければならない事を知っているからだという。そういう息子の最も純粋なイメイジは、やがて目的地に着いたら屠殺される運命の仔牛の群

・日本

 息子は「家」のなかで、先祖伝来の田畑を守って生きなければならない。彼は放浪するカウボーイのように孤独であってはならず、母に対するように密接に血縁とつながり、母に対するような濃い情緒で大地に結びついていなければならない。日本の母と息子の粘着性の高い関係は、おそらくこういう文化的な背景から生まれたはずである。

 日米における親子関係の違いから重要な事が分かります。アメリカはフロンティア精神を培い、生きるを前提としているのに対し、日本は母的なつながりの中で生きる事を前提としています。この両国の特徴の違いは近代以降も、産業の発展に大きく影響しています。母的なつながりを前提としている日本は、母的なつながりを「会社とのつながり=終身雇用」に形を変え、1960年代の高度経済成長に代表されるように、日本全体が一丸となって発展してきました。一方、アメリカは、開拓地を「ビジネスによるグローバリゼーション」に形を変え、1980年代以降のシリコンバレーのハイテク企業に代表されるように、常に新しいフロンティアを開拓してきました。

 「母的なつながり」の中で発展して来た日本ですが、1990年代以降本格的にグローバリゼーションと対峙する中で、終身雇用は崩壊しつつあります。ここが非常に重要なポイントです。


 日本に漂う閉塞感の正体とは、終身雇用という母を失った事、そして新しい「母的なつながり」の不在なのではないかと僕は思うのです。